プロローグ   (峠にて)    
     会社のある工業団地への右折車線から逃げ出すように直進して車を走らせた。ふと山里の満開の桜に気づいて、

車のスピードをおとすと芦安だった。いつもの深夜テレビのようにただつけっぱなしで聞いてもいないカーラジオを消

すと、沢音と鳥の声だけが聞こえてくる。そういえば、甲府盆地は桃の花の季節のはずだったが、花を見た記憶が

なかった。

 道が細くなり急なカーブを折り返すように登っていく。春先になるといつも来ていたころにくらべると、道も随分良く

なったなあ などと思いながら登っていく。対向車もなく峠の茶屋の前の立派な駐車場に着く。

 山の格好をした人たちが何人かいて、Yシャツ、作業ズボンに革靴という格好で登るのには気がひけて、昼のお弁

当を入れた手さげ袋だけ持って足早に登り始める。登山口の見覚えのある道標に峠まで60〜80分とありおやっ?

と思う。そんなわけはないと思いよく見ると、50分と書いてあった上から書き足してあった。山の格好をした人たちが

皆お年よりだったから という訳なのだろうか。登山も時代が変わったということなのだろうか。ミズナラなどの多い明

るい林の中をしばらく真直ぐ登ると道は大きくジグザグを切るようになり、道幅も広がり歩き易い登山道となる。久し

ぶりの山歩きだが歩くにつれ心が落ち着いてくる。山を歩きながら いろいろな事を考える。昔からのくせだ。下山し

てくる人たちと何組かすれちがう。高齢者ばかりだ。まあこんな平日に自由な時間が持てるのは、今の日本では高

齢者ぐらいだろう。幼児だってお受験の世の中だ。それにしても皆さん白い目で見ていく。平日の昼間に会社に行く

ような格好で山を歩く。確かにそう見られて当然ですが、何か異質のものを見る目だ。登山服に登山靴、聖衣をつけ

ていないものは山に入ってはいけないと言わんばかりだ。いつもの被害妄想かと苦笑い。しかし以前はあんな綺麗

な登山服を着た人たちはそうはいなかったのは確かだ。これも時代が変わったということか。しかしいつの時も山は

全ての人に公平だ。自分の力を知らない人間、山を知ろうとしない人間、山を侮った人間、そして 自分で判断して

行動できない人間に容赦なく厳しい。それが好きでいつも一人で歩いていた。山に登ると何よりも自分のことがよく

わかる。

 かるく汗をかく。道は右へ右へと巻いていき最初の小さな雪のかたまりに出合ったらすぐに折り返しとなった。林間

の尾根の上に富士山の白い頭だけがのぞている。歩き始めて30分もう少しだ。今度は左に巻いていくようになる。

雪のかたまりが所々に現れ、そこだけ道がぬかるんでいる。林の中に白い大きな雪渓かと思ったら、尾根ごしに農

鳥付近の斜面が見えていた。折り返して10分弱、高水山との尾根に出る。谷を隔てて農鳥から間ノ岳が大きい。

尾根を右に数分峠に着いた。

 峠には誰もいず、思わず昔の調子で一声ほえる。正面にはゆったりとした間ノ岳、右へ中白根から北岳へとゆるや

かな白い稜線がのびている。吊尾根の重量感は、いつもながら圧倒的だ。左には西農鳥岳、農鳥岳が重なるように

聳え、笊ガ岳への長い稜線が続いており、その上に遠く雪をまとった荒川岳がのぞいている。群青の山麓、白い稜

線そして青い空、春の日差しがまぶしく目にしみる。心に焼き付いていた景色と寸分と違うことはなかった。しばらく

呆然と立ち尽くしていたが、正気に返ると峠のあちらこちらに移動して、それぞれの角度からの景色を確認して、やっ

と落ち着いて木陰のベンチに座る。会社で食べるはずだった弁当をあける。いつもと変わらない弁当なのだがやはり

格別にうまかった。

 ちょっと遅い昼食で満腹になり、ぼんやりと山を見ていると、東の空からジェット機が音もなく現れ、白い尾を引きな

がら北岳の上を通り、中白根の頭の向こうに消えていった。青い空を区切るように引かれた真直ぐな白線が、時間と

共に幅を広げ、波打つ曲線に変わっていく。まるで中白根の頭から昇るノロシのようだ。今日は良く晴れているが、

上空はかなり湿度が高いということか。予報通り、天気は下り坂ということなのだろう。耳をすませて聞こえてくるの

は、白鳳渓谷の遠い沢音と、笹の葉ずれだけだ。下の方ではよく鳴いていた鳥たちもまだここまでは上がってきて

いないのか。目の前をふっと小さな白い綿くずのようなものが横切る。ゆるやかな風にのってタンポポの種が峠を越

えて行った。心が自然の中に溶け出して広がっていく。今朝のあの胸をふさぐような気分は何だったのか。この時間

と空間は自分だけのものだ。日常からほんの数十分歩いただけでこんな世界があるのに、毎日毎日何のためにあく

せくしているのだろう。こんな世界があったことすら忘れて毎日を過ごしていたのか。そう思っただけで愕然とする。い

やこんなことは ただの現実からの逃避なのか。何から逃げようとしているのか。わからない。わからないがそんな

気持ちも溶け出していく。胸の中にあったものがみんな溶け出していく。かわりにちょっと冷たい山の引き締まった空

気が胸を満たしていく。心がゆったりと落ち着いてくる。一人きりなのにみんないる。何もないのに全てがある。自分

が山の一部になった。遠くで鳥の声がする。二羽で鳴き交わしながらだんだん近づいてくる。鳥はいなかったのでは

なく、自分の存在の違和感に警戒していたのだ。試しに小さく一声ほえてみる。鳥は鳴きやまない。もう少し大きな

声でほえてみる。一向に鳴きやむ気配もなく近づいてくる。そして大きな声でもうひとほえ。残響が山に響く。鳥は鳴

きやんでしまった。さすがにやり過ぎかと思っていると、一組の老夫婦が登ってきた。時計を見るとここに一時間近く

もすわっていたようだ。すっかり心も山の空気に満たされて山を下りれる気持ちになれた。

 独り占めしていた山を老夫婦に譲って 峠を辞す。高水山への分岐から、再び林の中に入る前に、山に向かって思

い切りほえる。自分の声が頭の中で響いているうちに林の中へ、街へ、家へ、日常へ。